せいもん払いとは?

明治12年、今のようにバーゲンが無かった時代。
博多下川端の漬物商、八尋金山堂の八尋利兵衛の発案によって博多ではじまった大売出しの事で、年に一度、博多商人からお客様に日頃の感謝を込めて行った感謝祭です。
毎年11月15日 16日 17日 18日 19日 20日の6日間

せいもん払いの風景

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くじ引き せいもん払いの風景
せいもん払いの風景 せいもん払い準備風景

恵比須くじは川端ならでは!1000名にお米が当たるえびすくじ

上川端商店街・川端中央商店街では、せいもん払い期間中お買い物されたお客様・毎日各店先着20名様に、空くじなしの「えびすくじ」が引ける抽選券を進呈致します。抽選場所:熊本銀行前 11月15日~20日 11時~18時

新米1キロ(菊池)渓谷と星野村の棚田米 川端ぜんざい引換券・博多川端一筆箋どちらか1点 大福張(台帳)
第136回せいもん払い えびすくじ引換券

せいもん払いを始めた男自分のもうけは後回し

せいもん払いの風景

博多のショッピング、レジャースポットとしてにぎわう「キャナルシティ博多」。近くの那珂川沿いにある清流公園の南端に、「博多町家寄進高灯籠」が立っています。
多くのアイデアで明治の博多を元気にした博多商人・八尋利兵衛の足跡の一つです。
博多町家寄進高灯籠は、本来、住吉神社(福岡市博多区)へ1900(明治33)年に寄進された石灯籠です。高さは約10㍍で、4面の石組みが上に伸び、緩やかな反りを見せている。この灯籠は常夜灯として明かりをともしたのはもちろんだが、当時珍しい広告塔としての役割も果たしていました。高灯籠の下段に刻まれた発起人一覧の最初にあるのが八尋利兵衛の名前です。利兵衛は明治期の博多を語るうえで欠かせない商人です。14歳の時から博多の呉服屋で店員修行をし、30歳で漬物店・八尋金山堂を開きました。
利兵衛の名が知られるようになったのは博多でせいもん払いを始めたからです。
大阪で体験した蛭子(えびす)市の誓文払いのにぎわいにピンとひらめきました。「商人が年に一度行う掛け引きなしの謝恩大安売り。人が押し合うこの熱気をぜひ博多でも・・・。」
利兵衛は博多の呉服商に合同の大売り出しを呼びかけましたが、当時の大売出しといえば、店が倒産したときの蔵ざらえ。交渉は難航しました。
何度も通って説得し、合計27店が協賛してくれて、1879(明治12)年の暮れに「誓文晴(せいもんばれ)」が実現しました。利兵衛はPRのために広告チラシを1万枚制作し、郡部にまで配りました。結果は人の波となって押し寄せ、大成功でした。
この呉服の売り出しに漬物商である利兵衛はもうけなどなかったから「大した男だ」という評判が高まりました。また、利兵衛は福袋や、鉄道会社や旅館、芸者検番との割引タイアップなどのアイデアを次々にひねり出し、さらに人を呼び込みました。
誓文晴は1903(明治36)年の25回目から参加する店を全業種に広げて、現在のせいもん払いに受け継がれています。期間は11月15日から20日。

博多川端 せいもん払い

まちを元気に、商人の鏡商店主たちが感謝の墓参

墓参風景

利兵衛の活躍はまだまだ続きます。1902(明治35)年には中州に8角形の木造8階建て、高さ30㍍ほどの高層楼「高砂館」を立ち上げて博多っ子を仰天させました。この建物は借地だったため、半年後には解体されましたが、館内は商品の展示場とし、7、8階には舶来の望遠鏡が備えられて、見物客が列をなしました。
ほかでは、那珂川での花火大会を1917(大正6)年に始めたのも利兵衛です。この花火大会は会場を中央区大濠公園に移して「西日本大濠花火大会」として今も続いています。
このように博多ににぎわいを生むことの先頭を走った八尋利兵衛。1921(大正10)年に没し、順正寺(博多区祇園町)に眠っています。
上川端商店街振興組合の前理事長・原公志は「利兵衛さんは博多に人を呼び込んで、まちを元気にした博多商人の鑑です。今は、せいもん払いスタートの前日に50人ほどでお参りしています。」
個人の利益を後回しにしてまちを活性化するために走り回った八尋利兵衛。
高灯籠のすぐ横に広がるキャナルシティのにぎわいを見たらいったいどんな顔をするのかみてみたいものです。

【参考文献】
西日本新聞「博多モノ語り」シリーズ 『博多町家寄進高灯籠』ほか